「大量複製業者」の時代から「ニコ動的流通」の時代へ

id:nakamurabashiさんのエントリとそのブコメを読んで色々と感じるとこがあったので、徒然とまとめ
 「大量複製業者」の時代の終わり
 http://d.hatena.ne.jp/nakamurabashi/20090409/1239224632

大量に複製・頒布・消費されるコンテンツは単なる「要素」の集合に成り果てた

 大量複製には金が必要だ。そのはずだった。でも、音楽はデータになり、ネットが普及した。大量複製にはコストがさほどかからなくなった。すでに、ネットにいる人はネットのものしか消費しない、という傾向はあるような気がする。人はただで作り、ただで聞く。あるいは読む。ありようが変わっていく、というそのことじたいは、もうどうにもならない。

「複製」という技術の発達によって、流通のコストが著しく下がり、コンテンツ(芸術作品)が大衆に広く消費されるものとなったのは、21世紀の現代に始まった話ではないと思う。
舞台から映画、そしてテレビへとお芝居を伝えるメディアは移り変わって来たし、テキストだってグーテンベルグの時代から比べても遙かに早く・安く・大量に伝えられるようになっている。
それこそヴォルター・ベンヤミンが言うように、このこと自体は100年前から続く一つ流れの一部であるように思える

1900年頃に技術的複製はある水準に到達した。
ここに至って技術的複製は、従来伝えられてきた芸術作品すべてをその対象としはじめ、またそれらの作品が作用する仕方にきわめて深い変化をもたらしはじめただけでなく、芸術の技法のあいだに、独自の地位を獲得したのである。
『複製技術時代の芸術作品』


問題は、やはり、オリジナルのもつ「魔力」が全く失われてしまっていること(魔力の形骸化)、なのだろう
複製という技術が、コンテンツがそもそみ備えているはずの「魔力」を薄れさせるものであることは間違いないが(どんな高音質のオーディオや大迫力のDVDで見たところで、ライブで「感じる」感動は味わえない、はず((いわゆるひとつの「いま-ここ」ってやつね)))、オリジナルにさえ「魔力」がなくなってしまっている、というのが現状ではないか

音楽を作る人と、聞く人のあいだには、「大量複製する人」が入るようになった。その人たちの仕事は「音楽の持つ魔力を利用して、一人でも多くの人に聞いてもらう」だろう。
でも、俺がテレビで見たものには、魔力はなかった。形骸化した魔力は、単なる技術となっていた。技術は、もはや魔力のふりすらやめてしまい、そこには技術という名の骨組みだけが見えている。これは、音楽の売りかたの制度疲弊ではないのか。

魔力を失った、そんな薄っぺらいコンテンツをいくら大量に複製したところで、そこに何かを感じ取ることができるはずもない
誰かがブコメで似たようなことを書いてたけど、この状態は東浩紀氏が『動物化するポストモダン』で指摘した「データベース消費」にとても近いように思えた


僕の記憶が確かなら、萌えの対象となるキャラクターは、細分化&データベース化された「萌え要素」を組み合わせた集合でしかなく、共通のデータベースをもつ(同様の解釈と感情を共有できる)ヲタク達の間で繰り返し消費される、みたいな話だった、はず。


 ・ツンデレくぎゅ+貧乳+お姫様+ピンク髪=ルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエールちゃん
 ・無口+淡泊+みのりん+銀髪+宇宙人+セーター+メガネ*1長門


とかまあ、そんなやつ。


同様に、大量に消費されることが余りにも当然となったコンテンツ達はみんな、「単なる要素の集合」に成り果ててしまったんじゃないか。
少なくとも、作り手の作り方 and/or 受け手の受け方としては、そんな扱いをされているように思えてならない。ルイズや長門の例と全く同じように、


 ・アイドル+女子高生+ダンス+集団&組分け=AKB48
 ・DQN女+突然の出会い+恋愛+病気+別れ=恋空(笑)


みたいに消費されちゃってるのが今なんじゃないかなーとか思うんですよ。
3次元のコンテンツは滅多に見ないのでよく分かりませんが、ね…

コンテンツはユーザによって「ニコ動的」に流通する

ここまでは前置きなんだけど(長ッ)、次の問いは「じゃあ魔力をもった音楽(ココンテンツ)はどこに行ったの?」といったところになると思う。
再度、id:nakamurabashiさんを引用すると、

 俺はここで初音ミクのことを思い出さずにはいられなかった。ミクにおいては「音楽自体」と聞き手のあいだに挟まるすべてのものがミクに一任された。聞く人は、それを増幅させてもいいし、自分なりに解釈してもいい。それらのすべてがほかならぬ聞き手によって行われたことが、それまでの商業音楽とは決定的に違う。


恐らく、初音ミクの音楽と商業音楽との決定的な違いを生んでいるのは「作り手と受け手が織り成す相互作用」だろう。そのメカニズムを可能にしているのが、他でもないニコニコ動画というコミュニティである


ある作り手が、ミクを使って歌を作る。受け手達はニコ動というコミュニティの内部でそれを「消費」し、独特のお作法に従ってそれに「反応」する。その「反応」には、コメントというpassiveなものは勿論、歌ってみた/演奏してみた系の動画やMAD動画への流用といったactiveな「新しいコンテンツの生成」も含まれる。そうやって、あるコンテンツに端を発したひとつの「系」がユーザ達相互の作用によって創られていく


このような在り方が、既存の「大量複製・頒布・消費」といった一方向的かつ刹那的なコンテンツ流通・消費の在り方とは根本的に異なるものであることは、言うまでもない

「ニコ動的」流通における通貨は「あいつすげーな」の声

「ニコ動的」なコンテンツの生成&消費のメカニズムを考えていると、それがオープンソースのコミュニティによく似ていることに気がついた。エリック・レイモンドが『伽藍とバザール』で「バザール的」と言った、多くの人が自由に参加し、自分のスキルにあったものを持ち寄り、コミュニケーションの中でコンテンツ(ソフトウェア)が生まれていく世界だ。
既存のコンテンツがごく少数の「設計者」のコントロールの元に順序よく作られるものだとすれば(伽藍方式*2)、まさに「ニコ動的」な在り方はバザールの営み*3)だと言える


ここからは、ひとつの面白い意味合いが導き出せる。即ち、バザール的な世界は「贈り物の文化(gift culture)」が共有される場である、ということだ。
レイモンドは、既存の市場メカニズムを「交換経済(exchange culture)」と位置づけ、「何を持っているか」によって社会的地位が決まる世界だとした。これに対し、Linux開発コミュニティのようなオープンソースの世界は「gift culture」であり、地位は「何を与えたか」によって決められる
これはまさに、ニコニコ動画においてネ申たる職人やPが讃えられる様にそっくりではないか


更にレイモンドは「仲間内での評判(reputation among one's peers)」こそが彼ら(ハッカー達)のモチベーションの源泉だと述べている。
自分がこのコミュニティに参加・貢献したことで、いくら儲かるとか何を得するとかじゃなく、「凄いやつらが集まってる中で、あいつすげーって思われることの喜び」こそが、彼らが新たなコンテンツを生み出す活力になる、という話だよね


折しも、ニコ動が先日導入した「ニコニコ広告」は、こういう評価をスムーズにやりとりするのに凄く役に立つ仕組みだと思う。
米そのものや、PV数&マイリス登録数も可視化された指標だけど、「ユーザーの“好き”が反映されたランキング」によって評価されることは、こういうモチベーションに凄く「効く」ように思えてくる


 初音ミクアイマス“以外”を目立たせたい――ニコニ広告の狙い、ひろゆき氏に聞く
 http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0904/06/news018.html

蛇足:既存の流通システムはクラウド化する、か?

最後に、「じゃあ、既存のコンテンツ流通はどうすればいいの?何なの?馬鹿なの?死ぬの?」って問いが残るよね、というお話を書こうと思ったんだけど、いい加減眠いのでまた別の機会に。。。


ソフトウェアの喩えを引っ張るとすれば、GoogleMicrosoft(ですら)が始めたように、もう雲の向こうにコンテンツを持って行くのが答えなようにすら思えてくるんだよね。
どうせもう、音楽なんて(恐らく映画も、たぶんゲームとかも)コモデティたる「要素の集合」なんだから、いちいちパッケージング(物理的にも)して個々に売ったり買ったりしなくても、「音楽というサービスのかたまり」として売っちゃえばいいんじゃないか、という妄想です。


いまの有線をもそっと進化させる感じで、月額5,000円で好きな時に好きなアニソン聞き放題、カラオケver.もあるよ、とかだったら契約するんだけどなーとか思ってみたり。Napsterとかでそんなのあったっけ?
だってもう、いちいちAmazonとかITMsとかで買うのすら面倒くさいんだもん

ベンヤミン・コレクション〈1〉近代の意味 (ちくま学芸文庫)

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動物化するポストモダン オタクから見た日本社会 (講談社現代新書)

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伽藍とバザール―オープンソース・ソフトLinuxマニフェスト

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*1:これはお好みで。紅さんは無しのが好き

*2:Cathedral(伽藍・聖堂)を建てる際に用いられるやり方。レイモンドの例ではいわゆる企業による大規模なソフトウェア開発のやり方の比喩

*3:市場、くらいの意味。レイモンドはオープンソースのプロジェクトだったLinuxの開発の在り方をこう喩えた