Twitterは非リア充お断りのサービスになってしまうのか

Twitterの新機能で、同じIPを使っている職場の同僚や家族が、おすすめユーザーとして表示されるようになって、巷(一部)を騒がせています。
というわけで、こんばんわんこ。紅たんです。たまには真面目な記事でも。


Twitter新機能 同僚や家族でTwitterやってる人をIPから辿れるように


職場の同僚に隠れて変態ツイートをしていた人や、家族に内緒のつぶやきをしていた人にとっては、死活問題となりかねない問題です。今さらではありますが、僕も職場のIPからtwitter使うのはやめています。
この機能を見て、Twitterのプライバシーに関する方向性の転換ーというか方向性の明確化と捉える向きもあるようです。その背景には「自分がネット上、特にソーシャル的なサービスでどんなことをしているかは、みんなに知っていてほしいわけではない」という感情があるんじゃないでしょうか。

■ 同じ「ソーシャル・コミュニティ」でも、サービスによって哲学は違う

そもそみ、ひとくちに「ソーシャル」と言っても、それぞれのサービスやコミュニティが目指す方向性には、随分と差があります。
特に、この「実名-匿名問題」、言うなればそのネット上の世界がリアルとの結びついたものなのか、それとも切り離されたものなのか、という点にはそのサービスの特徴が現れてくるところだと思います。


最も分かりやすい例がFacebookです。
Fbの実名主義は有名で、創業者M.Zuckerbergが実名主義を信条としていることを語ったり、匿名と見られるユーザアカウントの停止を行ったりしています*1。元々が同じ大学内での学生同士のコミュニケーションを目的としたサービスであったという点も影響しているでしょう。日本のサービスでいうと、かつてのGREEがこれに近いイメージでしょうか(いまではすっかりケータイ向けゲームサイトになってしまいましたが)


他方、mixiやモバゲーはtwitter同様、リアルとの結びつきをさほど重視していないサービスだと言えます。
当然ながら実名登録は必須ではありませんし、モバゲーに至っては「サイト外の出会いを目的とする行為」の禁止を規約に掲げ、メールアドレスや電話番号の交換を禁止しているなど、意識的にリアルとの結びつきを極力排除しようという意図が見えます。
余談ですが、モバゲー内で一時期流行っていた「モバ家族」「モバ彼」「モバ学校」((モバゲー内限定の仮想的な「家族」や「恋人」、「クラスメイト」の関係を結ぶごっこ遊び的なもの。まだあるのかしら))なんていうのも、リアルとの結びつきを断っているからこそ発生・流行した現象だと思います。気持ち悪いですけどね


さらに、実名どころか参加者の同一性すらも外からは見えにくいのが2ちゃんねるです
一部のキャップ持ちやコテハン以外は、みんな同じ「名無しさん」という名前を与えられて書きこむため、「どれが誰の発言か」ではなく「なんと言っているか」というのがコミュニケーションの中心にあると言えます。

■ ネット-リアルの関係にはお国柄が現れる?

この辺りの「ネットとリアルとの距離の近さ/遠さ」の違いには、お国柄が現れると一般に言われています。*2
すなわち、ネットの世界をリアルの写しと捉える「アメリカ型」の考え方と、ネットとリアルは別物と考える「日本型」の考え方、という構図です。


へたに日本のネット((ネットに国境があるというのも奇妙な話ですが))でリアルとのつながりを晒すと(最近で言うとhanadas祭りのように)ちょっとしたネット上の軽はずみな行動からニュー速民に「祭られる」結果になったりもするので、実名やら学校名/職場名やらをネット上に公開したりサークルや飲み会の写真をアップロードしたりするのはリスクの高い行為と言えるかもしれません。
とはいえ、同じアメリカの掲示板サイトである4chan.orgが匿名性をベースとし((そもそみ日本のふたばちゃんねるの姉妹サイトとして立ち上げ))ており、創設者C. Pooleが「実名でのネット利用を求めるZuckerberg氏の方針は完全に間違っている。匿名の環境でこそ真実が得られる」と主張しているように、常にアメリカのソーシャル=実名制という式が成り立つとは限りません。

■ 「リアルとの距離」と「コミュニティの濃さ」で、コミュニティの性質が決まる

こうした「リアルとの距離」に加え、コミュニティの性質を決める要素としてもう一つ「コミュニティの濃さ」という要素があるのではないかしらと、個人的には思っています。つまり、そのコミュニティにおけるユーザー同士の結びつきがどれだけ強いかという視点です。


例えば、mixiなどのいわゆるSNSではユーザー同士のつながりは「友達関係」を基礎としています。この関係を結ぶには、お互いの承認(意思)というハードルを超える必要であり、ゆえにそうそう解除もできない仕組みになっています。よって交わされるコミュニケーションは友達関係にあるユーザ同士が大半を占める「濃い」コミュニティが形成されるわけです。
しかしこれがtwitterになると、「フォロー」という行為はフォローする側の一方的な意思によって行うことができるため、ユーザー同士のつながりはSNSよりも緩やかなものとなっています。相互フォロー関係にないユーザー同士でも、気軽にリプライを飛ばしたりリツイートしたりできるという点が、twitterの緩やかさを演出する仕組みではないでしょうか。
2ちゃんねるに至っては、そもそみユーザーの同一性が透明化されない中で、同じ興味を共有できる「スレ」の世界の中でお互いの発言に対して「レス」を飛ばす、という極めてつながりの「薄い」コミュニティになっています。


この2つの要素、「リアルとの距離」と「コミュニティの濃さ」という2つの要素で主なサービスをマッピングしてみると、以下の図のようになります。


匿名的で薄いコミュニケーションが主体の2ちゃんねるは左上、実名的でコミュニケーションの濃いFacebookは右下に位置づけられます。
Twitter2ちゃんねるよりやや右下よりですが、今回の騒動でより右へと移行していくのかもしれません。
招待制をとっていた日本のSNSは、Facebookよりもさらに「濃い」コミュニティだったと言えますが、招待制の廃止やモバゲーのPC対応といったオープン化路線に転換してからは、若干「薄目より」になったと言えるでしょう

■ 良し悪しではなく、目的に応じた「棲み分け」が必要なんじゃないか

と、ここまで書いてきてオチは特にないのですが、敢えてメッセージ的なことを言うとすると、「こういうサービスは良くない」とか「こんなサービスしか存在してはいけない」というような画一的な議論はどこか違うんじゃないかなーと個人的には思っています。
上で見たように、これだけ性質の違うサービスが併存しているということは、ユーザーが期待する要素ごとに、異なるサービスがあってもいいんじゃないかと思うわけです。Facebookが嫌いなら、積極的に使わなければいいことだし、似たような仕組みで微妙に違った方向性をもったサービスもあるはずです。*3


サービスの性質による「棲み分け」の例


今後もいろんな新しいサービスが生まれてくるのだとは思いますが、要は自分が「何をしたいか」によって、どのサービスをどうやって使っていくかを選んでいけばいいのだと思います。その文化に馴染まないようなサービスは、いずれにせよ淘汰されていく訳ですし、ね。

*1:参考:「フェースブック日本版、匿名アカウント停止続出」 Togetter - 「Facebook、春の垢BAN祭りが始まったよ!」

*2:日本のブログの匿名性について

*3:一定のクリティカル・マスを超えたサービスでないと、つながりたい知り合いとコミュニケーションできないという問題は残りますが