「未必の恋」論 / 恋愛関係の成立における意志的要素の問題について

「これは恋?」


「どこからが恋の始まりか」という議論は、Cookie読者*1スピッツファン*2ならずともシシュンキの甘酸っぱい思い出の一つとして、或いは現在進行形のprivateなissueのひとつとして、読者の胸の奥に深くとどまるところのものであると思われる。
少なくとも2個人の間で認められる恋愛関係が、それ以外(以前)の関係と区別されたものとして成立するためには、一定の行為*3による「関係に対する意味づけ」を必要とする。
スクールカーストの中位以上に属する男女の高校生の間で頻繁に取り交わされるという「告白行為」(及びこれに対して受諾の意を伝える行為)は、これを恋愛関係の成立契機となる実行行為の最たる例として読者にも容易に想起されうるものであろう。


しかしながら、恋愛関係成立の構成要件に該当する行為が存在していたとしても、それがまさに「恋に対して向けられているもの」でなければ、それを恋愛関係を成立させる実行行為に足るものと考えることはできないのではないだろうか。
即ち、責任要素としての「恋に向けられた故意」が必要なのではないか。
某F1レーサーとの関係を写真週刊誌に取り沙汰された某モデルの「私の場合は“付き合おう”っていう確認の言葉がなければ、キスしても恋人じゃない」という発言がこの点について象徴的である。


それでは、「恋に向けられた故意」の認定はいかにしてなされるべきなのであろうか。
この点、いわゆる「未必の恋」と「認識ある過失」をいかにして区別すべきかという問いを考える上で、問題となる。


たとえばこんなケース。
深夜に2人で飲んでいたところ、終電をなくしたので彼が「うちにおいでよ」と言ったため、
A)「ちょっと酔っちゃったし、まあそうなることもあるかもしれないな」
B)「そういうこともあるかもしれないけど、いやいや彼は友達だし大丈夫だろう」
と思いつつ着いていき、結局最後までいってしまった。
ここに恋に向けられた故意を認定することができるであろうか?


ここにおいて、行為に向けた意思・意欲といった積極的な内心事情を必要であると考える立場から、結果の発生に対する積極的な認容した場合に未必の恋が成立するとする見解がある。
この見解に従えば、「そうなっても構わないと思い、敢えて着いていった」場合に、未必の恋が成立することになる。(認容説)


しかしながら、特に恋愛局面においてかかる認容という心理状態は極めて微妙であり、立証も困難である。
また、意思的要素を過度に強調することは、故意の本質が表象である点からしても疑問である*4


そこで、行為事実や結果の発生を単に認識・予見するのみで足りると考える。(表象説)
即ち、単にそうした結果の発生が可能である=「そうなるかもしれない」と思ったに過ぎない場合は認識ある過失であって故意を認めるべきではない一方、結果発生の蓋然性を認識している=「そうならないよりも、そうなる方が可能性が高い」と思った場合には、「未必の恋」の成立を認めるべきであると考える。


またこの点において、行為事実の実現を表象しながらそれを思いとどまることの動機とせず、その先へ進んだ場合に「未必の恋」の成立を認める見解があるが、これは畢竟「動機」の有無を基準としている点において認容説に類するものであり、表象を重視する立場とは相容れないと考える。


以上。


参考URL:http://www.toranoana.jp/mailorder/article/04/0000/08/23/040000082322.html

*1:遊知やよみ「これは恋です」を参照されたい

*2:スピッツ「恋の始まり」を同じく参照のこと

*3:多くの場合では好意を前提とするが、必ずしもその限りではない

*4:恋の本質は意思かもしれないが