「作文の時間」で十分な文章力は身につくのか?

最近、DrexelのコースでEssay Writingのトレーニングをしていて思ったことを少し。
ふと、今まで日本で受けてきた教育の中で(小学校〜大学の6+3+3+4年)自分の考えを伝えるための文章を上手に書く練習というのを、あんまりした経験がないんじゃないか、と思ったんですよ。 *1
で、「小中学校の作文の時間って、そういえばなんだったんだろう」と思い返してみた、という話です。


以下の叙述は、紅さん個人の初等&中等教育の経験*2に基づいて書かれており、必ずしも一般化できるものではないかもしれないです。
世の中には「作文教育の神」みたいな先生もいれば(いるらしい)、国語教諭の勉強会なんぞにいけば体系化された方法論が議論・共有されている(ことを望みたい)みたいですが、残念ながらそんな方々に教わった経験はないもので…

作文は「書いたらおしまい」の時間だった、気がする

まず、紅さんには「誰かに作文を教わった記憶」がない。
勿論、小学校の時分に「作文を書いた記憶」はあって、運動会や遠足といった行事の思い出を綴ったり、夏冬休みのラスト3日間くらいで必死に読書感想文を捏造したりした覚えがある。
ちなみに読書感想文は書き初めと並んで「2大 嫌な宿題」だったのだけど、何の本を読んで感想文を書いたかほとんど記憶にないです。湯本香樹実の『夏の庭』で書いたの覚えてるくらいかしら。確か中学生だったけど、これから少年達は「おじいさんだったらこう考える」という物事の考え方を心に抱いて云々とか書いた気がする。
Anyway、書いた記憶はあるが教わった記憶がないのですよ *3


典型的な作文の時間は、
 ・国語ないし学活の授業中
 ・「はい、書いてー」で始まり50分放置
 ・先生にする相談は「漢字の書き方」くらい
 ・提出した作文に赤が入って返却された記憶もない
  (先生のコメントは時たまあったかも)
 ・ゆえに書き直しをした記憶もない
みたいな感じ。みなさんの実感にも合うかしらん


なんでこんなことを言っているかというと、初等教育(特に日本の)の諸科目ってやたら「トレーニング」っぽいじゃないですか。何かを習って、練習問題を解いて、○×をつけて、反復することで習得して、というのを国語にしろ算数にしろ理科社会にしろやってる。
(実技系科目はちょっと違うかもだけど、音楽はこれに近いよね。図工や美術はどうだろう)


でも作文の時間ではノートもとらなければ練習問題もなく、○×も反復もなかった。
じゃあ作文はそもそみ、何を目的として何をすることを求められるはずの時間だったんだろうか

作文は「心に移りゆくよしなし事」を書き言葉にする訓練、か?

個人的な記憶の範囲では、作文を書くときには少なくとも
 [1] 起こったこと / 読んだこと
 [2] それに対する自分の気持ち
の2点について書くことを求められていたように思う。
紅さんはどちらかというと従順で律儀なお子様だったので、作文を書くときには「起こったことを時系列順に列挙し、適宜そのときの感情を記す」という方法を採り、特に行事系の作文ではいつも大長編を執筆していたような気がする


この2点が作文で求められるものだとすると、本来、作文を書くという行為を通して、
 [1] 見聞きした事実を自分の言葉でまとめる力
 [2] 内面的な感情・情緒を言葉として表現する力
の2つの力を養うことができる、はずだ。
でもこれらの力を効果的に身につけられるような工夫が、作文の時間にどれほど用意されていただろう?


[1]の点について、
「こんな順番に書くと読みやすいよ」とか「出だしと最後には、こういう書き方を使うといいよ」といった指導を受けた覚えはない。
作文も文章である以上、誰かに読まれることを当然想定して書かれるべきであり、例え子供の文章といっても「考えるときの方法」と「伝えるときの方法」が違うことくらいは教えてもらわないと、何をどう書いていいか全くわからないんじゃないか。
[2]の点についても、
「自分の感じたことを表す言葉にはこんなものがあるよ」といった導入がなきゃ、普段使わない言葉を使って表現なんて出来るわけない。 *4
例えば6年生にもなって「少し疲れたけど、楽しい運動会でした」とか「函館は面白い街でした」とかじゃあ、あまりにボキャ貧(死語)ですよ


「何を身につけるための時間か」という視点に立ち返ってみると、やはり現状の作文教育には圧倒的に「書くための知識」の習得が足りていないように思う。id:reponさんがこちらのエントリで「ツール」が提供されていない、というの読んで激しく同意してしまった

対照的な「Writing」の方法論

アメリカの小学校でWritingをどう教えてるかは知らないのだけれど、最近の授業でessenceが見えてきたような気がしている。
正直、「まず心に思いついたことを書いてみよう」的な作文の世界とは全く違う方法論


始めにまずアウトラインありき。「言いたいこと」と「それをどうサポートするか」を大まかにでも始めに考える
最終的な成果物と同じくらいプロセスを重視。当然何度もreviseをかける
役に立つ「ツール」をまず習得。Transition wordsとかTime orderだのCause & effectだの


と、思いついた3点を上げてみただけで「こんなこと作文の授業でやった記憶がない」ということばかり。
紅さん的には、書き出しの言葉で15分悩んだ記憶はあってもアウトラインなんて書いた覚えはないし、作文を書くプロセスなんて先生に見てもらった記憶もない。況んや、ツールをや。
中学校に入って英語の授業が始まって初めて、ParagraphだのTopic sentenceだの聞かされる訳だけど、そういう考え方の元に文章を組み立てる訓練をそれまでしていないんだから、いきなり英語でやれといわれてもムリな話だと

マトモな日本語を書くための訓練、はいつどこでなされるのか

別に何から何までアメリカの真似をすべきだとは思ってないし、日本語は英語みたいに論理的な文章構成に必ずしも向いていないかもしれない、という点も一応は認識しているつもりです。
でも、世の中で一人前に生きていく人間を育てるためには、もう少し体系立てて「文章の書き方」を教える機会があってもいいんじゃないかしら


高等教育を受けたり社会に出て仕事をするようになると、誰かに何かを伝えるために「解りやすく意味の通じる文章を書く」力は必須だろう。この点、「日本人だから日本語はできるって」という態度の人が結構たくさんいるんじゃないか、と心配になったりもしてみる。*5
効果的な導入、論理的な論旨展開、主張の要約、なんて何気なく日本語の文章を書いてるだけで自然に身につく力じゃない、はず。
大学に入ればもう誰も教えてくれない。社会に出ればなおさら、っていうか手遅れでは?

「放っておけば、子どもたちは好きなことを見つけてどんどんそれをやり出す」というのは事実です。
しかし、それと、「好きなことを言語化する」という技術の間にはものすごい溝があります。
それをいくつかの「ツール」で埋めていくのが「教育」の力だと思うんですが、いかがでしょうか?

「作文」教育には「ツール」が無い - reponの日記 ないわ〜 404 NotFound(暫定)

*1:勿論、入社後は幸運にも様々なトレーニングを受けてきましたが。主に実地で。後は2ちゃんの書き込みと法学部の答案作成くらいかな…そんなんだから相変わらず読み易い文章が書けないんですねw

*2:於、北海道の片田舎のごくふつうの公立校

*3:ちなみに子の成長は暖かく見守る主義のN子さん(紅母@公立中学の国語教諭。もうすぐ定年)にも、あまりアドバイスを頂戴した記憶はない

*4:勿論、一部の読書経験豊富なお子様達は直観的に何をどうすればいいか知っている。でもそれって少数だよね

*5:正しい文章を書く、というレベルの他に、正しい文を書く、というレベルも存在するはずで、それはそれで問題なんじゃないかとも思うんだけど、ね(自分含めて)